野蛮さについて。
 
 
 
■ 見事にフラれると、思わず笑いだしたくなることがある。
 なるほど人生とはこういうものであるかと思うこともある。
 同時に複数の女性と付き合い、鼻の下を伸ばしていると、そのうち酷い目にあうこともある。
 バレーボールの球のように、あちらでどつかれ、こちらではたかれ、楽しみが苦痛に変わる日の移ろい。
 そうした毎日の中から、じわじわと滲んでくるアブラのようなものがその男の精神のかたちを変えてゆく。ま、いいんですけど。
 
 
 
■ ところで、次の文をどう読むだろうか。
 
 深夜の台所酒を味わった翌日はむろんひどい宿酔である。それは分かっているのに、台所にお御輿を据えて、一杯、二杯、だんまりで飲む酒にはえもいわれぬ味わいがある。酒痴末法か。けれども何かひとえぐり、人生をさらに深くえぐってみたというような感じがある。
 
 やはり深夜、よそから帰ってきて、勝手口の戸を開けながら、ふと空を仰いだ。西の空には十三夜の月が懸かっていて、大きな雲のかたまりが空一面にゆっくりと動いていた。十二月の真夜中だというのに、そう寒くはない。空を仰ぐことは絶えて久しい(略)。先夜の雲のかたまりにも平素味わうことのないあるものを感じた。強いて言えば、それは一種の深さの感じである。垂直情緒である。その時は、自分の時の流れがしばし停止して、自分に相対するものをより深く捉え得たような気がする。そしてよく考えると、自分がその時、つかまえたなと実感するものは実はこの自分の存在なのである。自分自分というけれど、その自分というものは普通自分にはなかなかつかまえられないものなのではあるまいか。
(高橋義孝:夜更けの酒と雲)

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■ 本来は全文を読んで戴きたいのだが、失礼を承知で半ばだけを選んだ。
 高橋先生は、深夜家族のものが寝静まった後で、もそもそ起きだしてきてひとり飲むコップ酒の味は格別であると言う。まさにその通りで、月の明るい夜更け、狭いベランダに出てちびちびやっていると不思議な感情に襲われる。
 遠くの温泉宿に出掛け、夜更けに布団から這い出して、たいして旨くもない酒をぐびりと飲んでいる時などにも同じことがある。
 
 
 
■ たとえば女と寝ているとする。女にとってひとたび山があり、それが幾つか続くとする。これ以上はもうない。と思っていると、その奥からまるきり別の感覚が沸いてくる気配がある。
 それが男に伝わる。互いにえぐるような精神の姿勢になる。
 そこで重要なのは、野蛮さということである。野蛮さを越えると、今度は静かなものが滲んでくる。愛情と呼びやすいものであったり、憐憫であったり、軽蔑であったり関係によって様々であるが、何か本質のようなものがすこしだけ伺えたような気持ちになる。時間が経てば消えてゆくものかも知れないし、そうでないかも知れない。しかし、一度、なにものかをえぐるような姿勢にならないと、視えてこないものがあるような気がする。
 所詮男と女との関係においては、ぎりぎりの処で、野蛮なものが不可欠なのではないか。勿論それだけではないが、それを避けることによって、根本的に傷つくことはないかも知れないが、次第に澱のようなものが溜まってくるような気配を感じている。